ゲーザ1世 (ハンガリー王)

ゲーザ1世
I. Géza
ハンガリー国王
シャラモン王とゲーザ、14世紀のミニアチュール画より
在位 1074年 - 1077年

出生 1040年
ポーランド
死去 1077年4月25日
埋葬 ハンガリー王国の旗 ハンガリー王国ヴァーチ大聖堂
配偶者 ソフィア
  シナデネ
子女 カールマーン
アールモシュ
家名 アールパード家
王朝 アールパード朝
父親 ベーラ1世
母親 リグザ
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ゲーザ1世(I. Géza, 1040年 - 1077年4月25日)は、ハンガリー王(在位:1074年 - 1077年)。

生涯

のちのベーラ1世の長男として、父の亡命先のポーランド宮廷で誕生した。ゲーザという名前は異教徒の名前であったらしい。彼はマグヌス(Magnus)という名で洗礼を受けているからである。1048年、父ベーラはアンドラーシュ1世よりハンガリー王国の3分の1に相当する公領を授けられたため、家族を連れて帰国した。オルセオロ・ペーテル王から王位を奪ったアンドラーシュは、弟ベーラとともにペーテルの同盟者・神聖ローマ皇帝ハインリヒ3世軍と対峙、撃退に成功する。しかし、父と伯父の関係は、従弟シャラモン(のちのシャラモン王)が生まれてから悪化する。アンドラーシュは幼児のシャラモンを後継者に指名したためである。アンドラーシュが確立しようとした長子相続制とは反対に、ハンガリーでは一族の年長者が後継となる男系年長者相続制が未だ根強かった。1059年、ゲーザは父や弟たちとともにポーランドへ向かった。

1060年、ポーランド軍を加えた大軍で、ベーラとゲーザらはハンガリーへ侵入した。迎え撃ったアンドラーシュ1世を敗死に追い込み、ベーラが即位した。ゲーザは父に従い、シャラモンの正当性を支持する皇帝軍が侵攻してくるとこれを撃退している。ベーラが在位わずか3年で死去すると、ゲーザは皇帝の後ろ盾を得ているシャラモンの即位を受け入れ、自身は父のかつての公領を継承した。しかしシャラモン王はゲーザたちを冷遇したため、彼らは再びポーランドへ亡命した。

1064年、ゲーザらは従兄ボレスワフ2世軍を従えて再び、皇帝軍の去ったハンガリーへ侵攻した。内戦を回避しようとした司教らの仲介で、ゲーザは王とジェールで和解する。

しかし王との関係は次第に険悪となる。クロアチア王国支援の遠征、ペチェネグ族退治のためのトランシルヴァニア遠征、ベオグラード包囲戦などが続き、1074年にとうとう内戦が勃発した。ゲーザは縁者であるポーランドとボヘミアからの援軍を得て、シャラモン王軍を敗退させた。3月のモジョラードの戦いに負けたシャラモンは、神聖ローマ皇帝の庇護を求めてドイツへ逃げた。8月には皇帝とシャラモンがハンガリーへ侵攻してくるが、皇帝は同時期にザクセンで起こった反乱を鎮圧する必要に駆られ、ハンガリーから兵を引き上げてしまった。シャラモンは、最後まで保持していたモションとポジョニ(現在のブラチスラヴァ)を奪われてしまう。

即位したゲーザ1世は、諸外国から承認を受けるために奔走した。彼はローマ教皇グレゴリウス7世(神聖ローマ皇帝と対立中であった)と、東ローマ皇帝ミカエル7世ドゥーカスの元へ大使を派遣した。教皇はハンガリー王国の宗主権を要求してきたためゲーザはこれを受けず、反対にミカエル7世ドゥーカスはゲーザへ『古来からあるハンガリー王冠に加えるよう』王冠を贈った。ゲーザはこの贈られた王冠を戴冠式に用いた(古い王冠はシャラモンが所有していたため)。この時にゲーザは、2度目の妃としてミカエル7世配下の将軍ニケフォロス・ボタネイアテス(のちのニケフォロス3世ボタネイアテス)の姪シナデネ(Synadene)と結婚している。

彼は短い治世の間に、ガラムセントベネデク(現在のスロヴァキアの町フロンスキー・ベネディク)に修道院を建て、ヴァーチ大聖堂の建設を終わらせた。1076年、ゲーザは、侵攻してきたシャラモン軍を撃つよう実弟ラースローに命じた。しかし、シャラモン軍に敗退してしまう。年代記によると、既に体調の悪化していたゲーザはこの敗戦でさらに回復不能となり、シャラモンの復位すら考えたという。ゲーザは回復しないまま1077年に死んだ。

子女

1062年頃、ルーン伯女ソフィアと結婚。

  • カールマーン(1070年 - 1116年
  • アールモシュ(英語版)(1070年頃 - 1127年) - 1104年、キエフ大公スヴャトポルク2世の娘プレドスラヴァと結婚。ベーラ2世の父。また娘アーデルハイト(? - 1140年)は1123年にボヘミア王ソビェスラフ1世と、ヘートヴィヒは1132年にオーストリア辺境伯レオポルト3世の長子アダルベルトと結婚した。

1075年、ニケフォロス・ボタネイアテスの姪シナデネと結婚。

先代
シャラモン
ハンガリー王
1074年 - 1077年
次代
ラースロー1世
アールパード朝(大公)
  • アールモシュ(英語版)855頃-895頃
  • アールパード895頃-907頃
  • ジョルト(英語版)907頃-947頃
  • ファリチ(英語版)947頃-955頃
  • タクショニュ(英語版)955頃-972頃
  • ゲーザ(英語版)972頃-997
  • イシュトヴァーン997-1000
アールパード朝(王)
  • イシュトヴァーン1世1000-1038
  • ペーテル1038-1041
  • シャームエル1041-1044
  • ペーテル(復位)1044-1046
  • アンドラーシュ1世1046-1060
  • ベーラ1世1060-1063
  • シャラモン1063-1074
  • ゲーザ1世1074-1077
  • ラースロー1世1077-1095
  • カールマーン1095-1116
  • イシュトヴァーン2世1116-1131
  • ベーラ2世1131-1141
  • ゲーザ2世1141-1162
  • イシュトヴァーン3世1162-1172
  • ラースロー2世(対立王)1162-1163
  • イシュトヴァーン4世(対立王)1163-1165
  • ベーラ3世1172-1196
  • イムレ1196-1204
  • ラースロー3世1204-1205
  • アンドラーシュ2世1205-1235
  • ベーラ4世1235-1270
  • イシュトヴァーン5世1270-1272
  • ラースロー4世1272-1290
  • アンドラーシュ3世1290-1301
プシェミスル朝
  • ヴェンツェル1301-1305
ヴィッテルスバッハ朝
  • オットー1305-1307
アンジュー朝
  • カーロイ1世1308-1342
  • ラヨシュ1世1342-1382
  • マーリア1382-1385
  • カーロイ2世1385-1386
  • マーリア(復位)1386-1395
ルクセンブルク朝
  • ジグモンド1387-1437
ハプスブルク朝
  • アルベルト1437-1439
ヤゲロー朝
  • ウラースロー1世1440-1444
ハプスブルク朝
フニャディ朝
  • マーチャーシュ1世1458-1490
ヤゲロー朝
  • ウラースロー2世1490-1516
  • ラヨシュ2世1516-1526
ハプスブルク朝
ハプスブルク=ロタリンギア朝
  • ヨージェフ2世1780-1790
  • リポート2世1790-1792
  • フェレンツ1世1792-1835
  • フェルディナーンド5世1835-1848
  • フェレンツ・ヨージェフ1世1848-1916
  • カーロイ4世1916-1918
  • 1918年、ハンガリー人民共和国成立
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