伊作久長
「島津久長」はこの項目へ転送されています。江戸期の加治木島津家9代当主については「島津久長 (加治木家)」を、江戸期の豊州島津家14代当主については「島津久長 (豊州家)」をご覧ください。 |
凡例 伊作 久長 | |
---|---|
時代 | 鎌倉時代後期 - 南北朝時代 |
生誕 | 不明 |
死没 | 興国2年/暦応4年9月28日(1341年11月7日) |
改名 | 薬寿丸(幼名)→久長 |
別名 | 彦三郎左衛門尉、島津久長 |
官位 | 下野守、大隅守 |
幕府 | 鎌倉幕府 |
主君 | 北条氏 |
氏族 | 島津氏→伊作氏 |
父母 | 父:島津久経 |
兄弟 | 忠宗、久長 |
子 | 宗久、二郎三郎、久俊、恒吉久行 |
テンプレートを表示 |
伊作 久長(いざく ひさなが)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての武将。
生涯
島津氏宗家3代当主・島津久経の次男。鎌倉幕府の命により元の再襲来に備えるため、父・久経と共に薩摩へ下向。弘安4年(1281年)、薩摩伊作荘と日置荘、信濃国太田荘の地頭職を久経より譲り受ける。同年、元軍が再び襲来すると博多を防衛、弘安の役後も警固の任に就く。
弘安7年(1284年)、父・久経が死去し、兄・忠宗が守護を継ぎ薩摩へ入ると、久経に代わり博多警固の任[1]を20年にわたり務めた。
その後領地である伊作に入り亀丸城を築くと、文保元年(1317年)、長男・宗久に家督を譲る。延元3年(1337年)、宗久が後醍醐天皇に叛旗を翻した足利尊氏に味方し北朝方として畿内・北陸方面に遠征すると、亀丸城の留守を預かる。伊集院忠国ら薩摩南部の南朝方が伊作に侵攻してきた際、交戦するが勝敗はつかなかった。
興国2年/暦応4年(1341年)、死去。
系譜
脚注
- ^ 中世島津家の時代 - 出水市
伊作島津家初代当主(1281年 - 1317年) | |
---|---|
宗家 | |
総州家 | |
奥州家 | 氏久1363-1387 | 元久1387-1411 | 久豊1411-1425 | 忠国1425-1470 | 立久1470-1474 | 忠昌1474-1508 | 忠治1508-1515 | 忠隆1515-1519 | 勝久1519-1526 | 貴久1526-1566 | 義久1566-1587 | 義弘1587-1602 | 家久1602-1638 | 光久1638-1687 | 綱貴1687-1704 | 吉貴1704-1721 | 継豊1721-1746 | 宗信1746-1749 | 重年1749-1755 | 重豪1755-1787 | 斉宣1787-1809 | 斉興1809-1851 | 斉彬1851-1858 | 忠義1858-1897 | 忠重1897-1968 | 忠秀1968-1996 | 修久1996-現在 |
分家・支流 | |
越前家 | |
播磨家 | |
伊作家 | |
薩州家 | |
相州家→ 垂水家 | |
豊州家 | |
玉里家 | |
加治木家 | |
佐土原家 | |
重富家 | |
和泉家→ 今和泉家 | |
宮之城家 | |
永吉家 | |
日置家 | |
北郷氏→ 都城家 | |
佐多氏→ 知覧家 |