地主悌助
地主 悌助(じぬし ていすけ、1889年(明治22年)7月12日 - 1975年(昭和50年)11月26日)は、日本の洋画家。
人物
1889年、地主正次の次男として山形県鶴岡最上町(現:鶴岡市)に生まれる[1]。
1905年に山形県立荘内中学校(現:山形県立鶴岡南高等学校)に進むも中退。検定試験に合格し小学校教諭となる。
1913年、画家坂本繁二郎の作品を見て、感銘を受け、弟子となる[1]。
その後、図画教諭の検定試験に合格。秋田県師範学校、山口県女子師範学校、鶴岡中学校(現:鶴岡南高等学校)で教鞭を執った。また1950年には鶴岡の美術団体「白甕社」会長に就任。庄内の芸術文化の発展にも尽力した[1]。
1954年に健康を害したことから、転地療養も兼ね、友人である真田祐太郎が居住する神奈川県中郡二宮町に移る。
1956年に東京日本橋の画廊で初めて個展を開いた際、小林秀雄に認められたことが、画家として名を成すきっかけとなる。以後、都内の画廊で毎年個展を開くようになる[1]。
1975年11月26日 死去。享年86[2]。墓所は鶴岡市の保春寺。
受賞歴
主な作品
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脚注
- ^ a b c d 『新編庄内人名辞典』p.371
- ^ a b “寂の画家と称される 庄内の美術振興に尽力 地主悌助”. 荘内日報. http://www.shonai-nippo.co.jp/square/feature/exploit/exp96.html 2018年4月13日閲覧。
参考文献
- 庄内人名辞典刊行会編『新編庄内人名辞典』 庄内人名辞典刊行会、1986年。
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