橘遠保

橘 遠保(たちばな の とおやす、生年不詳 - 天慶7年2月6日(944年3月3日))は、平安時代中期の官人官位従六位上美濃介

出自

系譜は明らかでないが、敏達天皇裔の橘氏に繋げ、橘奈良麻呂の子・安麻呂の後裔である成行の子[1]、あるいは橘広相の孫・保輔の子[2][3]とする系図がある。あるいは、伊予橘氏の一族とする見方もある[4]

また、平将門の乱の際に相模権介押領使であり、乱後に駿河守となった橘最茂や、最茂と同時期に駿河掾となった橘近保は遠保の親族とされる[5]

経歴

天慶3年(940年)正月に平将門の乱に際して防戦した功に対する恩賞として、遠江掾に任ぜられる。

翌天慶4年(941年)には伊予国警固使として藤原純友の追討に当たり、博多湾の戦いの後伊予国へ逃れた純友とその子息・重太丸を捕らえ[6]、同年7月7日に純友・重太丸の首を朝廷へ進上した[7]。後述のとおり、純友追討の功により伊予国宇和郡を与えられたとする伝承もある。

その後美濃介に転任したが、天慶7年(944年)2月6日の夕刻、自宅への帰途で何者かに斬殺された[8]。藤原純友の残党による報復ともいわれている[9]

子孫

後世、その武功から遠保の子孫を称する武将が多い。いわゆる「源平藤橘」として橘氏を四大姓の一つに数えるのは遠保の子孫が栄えたためともされる[10]

平安末期から鎌倉初期の武将である橘公長公業父子は橘遠保の末裔を称していた。嘉禎二年(1236年)、橘公業が西園寺公経宇和郡の地頭職を争った際に「伊予国宇和郡のこと、…公業先祖代々の知行、就中(なかんづく)遠江掾遠保、勅定を賜り、当国の賊徒純友を討ち取りてより以来、当郡に居住し、子孫に相伝せしむること年久し。」(『吾妻鏡』同年2月22日条)と主張している。また、これによると遠保を遠江とする伝えがあったことも分かる。

楠木正成も橘氏を称した。その出自には諸説あるが、一般に遠保の末裔とされる(『尊卑分脈』や『太平記』は、橘氏嫡流系統の為政の末裔とする)。正成の母が橘盛仲の娘と伝えられ、父(楠木(和田)正遠か)が盛仲の女婿となったとも考えられる。この盛仲を遠保の子孫とする説と為政の子孫とする説の2説があるのだが、一般には天慶の乱において朝敵を追討する武功のあった遠保の後裔とすることが好まれたようであり、江戸時代の『本朝百将伝』橘遠保の項には「楠正成は遠保が末孫なりと世にいひつとふるなり」とある。

新居浜市の一宮神社社家である矢野氏も橘遠保の子孫を称している[11][12]

この他に平安時代末期に駿河国の目代であった橘遠茂も子孫の可能性が指摘されている[5]

系譜

  • 父:不詳
  • 母:不詳
  • 妻:不詳
    • 男子:橘保氏[13]
    • 男子:橘行順[2]
    • 男子:橘保経[2]

参考文献

以下は出自・系譜セクションの出典。

  • 宝賀寿男『古代氏族系譜集成』古代氏族研究会、1986年
  • 太田亮『姓氏家系大辞典』角川書店、1963年
  • 森公章「純友の乱と西国武者の生成」『東洋大学文学部紀要 史学科篇』33、2007年
  • 下向井龍彦『物語の舞台を歩く 純友追討記』山川出版社、2011年

脚注

  1. ^ 『系図纂要』橘朝臣姓
  2. ^ a b c 「小鹿島渋江系図」
  3. ^ 『渋江系図』内題「橘姓渋江氏系図」(東大史料編纂所写本蔵)
  4. ^ 太田[1963: 3489]
  5. ^ a b 下向井[2011]
  6. ^ 師守記』は同年6月20日、遠保が純友を射殺したとする。
  7. ^ 本朝文粋
  8. ^ 『日本紀略』
  9. ^ 森[2007]、下向井[2011]
  10. ^ 太田[1963: 3490]
  11. ^ “西条歴史発掘 ~『予章記』矢野系図と新居系図”. 2024年6月6日閲覧。
  12. ^ 矢野文雄「我が家の系譜中にある矢野遠保(橘遠保)と純友誅伐について」(『郷土史談』14、1976年
  13. ^ 鈴木真年『百家系図稿』巻2,萩原