紀元前272年

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紀元前272年(きげんぜん272ねん)は、ローマ暦の年である。

当時は、「ルキウス・パピリウス・クルソルとスプリウス・カルウィリウス・マクシムス共和政ローマ執政官に就任した年」として知られていた(もしくは、それほど使われてはいないが、ローマ建国紀元482年)。紀年法として西暦(キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前272年と表記されるのが一般的となった。

他の紀年法

できごと

セレウコス朝

エジプト

共和政ローマ

共和政ローマの勢力拡大

ギリシア

  • スパルタから追放されたスパルタのクロニムス(英語版)(スパルタ王家の血を引くクレオニムス)は、マケドニア王国エピロスの王ピュロスに、スパルタを攻撃して自身を権力の座につけてくれるように依頼した。ピュロスはこの計画に同意したが、ペロポネソス半島を自身の支配下に置こうとしていた。アレウス1世に率いられたスパルタ軍の大部分がクレタ島に滞在していた時、ピュロスは大軍を率いて、容易に街を占領した。しかし市民は抵抗組織を結成し、アンティゴノス2世の軍の一部はコリントス傭兵を伴って街に到着することができた。この直後、スパルタ王アレウス1世は、2000人の軍を率いてクレタ島から戻った。これを見て、ピュロスは攻撃を中止し、国をこっそり略奪し始めた。
  • ピュロスの軍は、こっそりとアルゴスに移動したが、アンティゴノス2世の軍に支援されたアルゴス市民との狭い市街での戦いに巻き込まれた。混乱の中で、ある老女が屋根の上からピュロスに向かって投げた瓦がピュロスに命中し、アルゴスの兵士はピュロスを殺害することができた。
  • ピュロスの死後、息子のアレクサンドロス2世がエピロスの王位を継いだが、アンティゴノス2世は、2年前にピュロスに奪われていたマケドニア王国の王位を取り戻した。

インド

中国

  • 楚の太子完が人質としてに入った。
  • 秦が南陽郡を置いた。
  • 韓・魏・楚が連合して燕を攻撃した。

誕生

「Category:紀元前272年生」も参照

死去

「Category:紀元前272年没」も参照

脚注

注釈

出典

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関連項目

ウィキメディア・コモンズには、紀元前272年に関連するカテゴリがあります。
紀元前3世紀の十年紀と各年
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