聚楽館

聚楽館
Shurakukan
聚楽館(1938年)
情報
正式名称 聚楽館
完成 1913年8月18日
開館 1913年9月1日
閉館 1978年
客席数 1,690席(1940年時点[1]
用途 映画の上映、各種演劇の上演
運営 松竹株式会社
所在地 兵庫県神戸市兵庫区新開地2丁目35-2
最寄駅 阪急神戸高速線新開地駅
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聚楽館(しゅうらくかん)は、かつて神戸市新開地に存在していた建造物。正式には「じゅらくかん」であるが、市民は「しゅうらっかん」と呼んでおり、それが正式名称となった。名称は豊臣秀吉が贅を尽くした聚楽第にちなんで名付けられた[2]

概要

建築様式・経営方法ともに東京帝国劇場をモデルにして建てられ、「西の帝劇」と呼ばれていた[2]。「ええとこ ええとこ、シュウラクカン」と歌いはやされ、戦前から戦後にかけて新開地繁栄の象徴として君臨した[2]。鉄筋三階建て・地下一階の洋風劇場で収容人数は1,200人、冷暖房完備の場内には真紅のカーペットが敷かれ、夜には屋上で三千燭光の大アーク灯が輝くという神戸モダニズムを代表する近代劇場だった[3]。一階は平場ですべて椅子席となっており、2・3階は弓形に湾曲、緩やかな勾配となっており、観覧しやすい構造となっていた。また階上の貴賓休憩室には桃山時代の粋を再現したデザインもあった。建築費は当時の額で建物に15万円、内部施設に7万円がかけられた[4]

開業当時の入場料は、特別席3円、1等2円50銭、2等1円70銭、3等80銭、4等30銭であった[5]

歴史

聚楽館のこけら落としを飾った七代目松本幸四郎(1910年の写真)

1913年大正2年)8月18日竣工。建築家設楽貞雄が設計した。帝国劇場は渋沢栄一大倉喜八郎ら東京の財界人の出資で建設されたのに対して、聚楽館は武岡豊太を社長とし、小曽根喜一郎、森本清、鈴木商店店主の二代目鈴木岩治郎瀧川辨三神田兵右衛門ら神戸の有力者の出資に帝劇の大株主・大倉喜八郎の出資が加わり、建設された。

建設の契機として、歌舞伎の七代目松本幸四郎と松竹の関係悪化がある。松竹と関係が悪化した松本幸四郎は、松竹に対抗する一座を作って帝劇を拠点に据えたが、聚楽館は関西における松本幸四郎のもう一つの拠点として建設されたという裏事情があった。

開場時には当時珍しかった自動車パレードが行われ、その人気ぶりは聚楽館前で市電がストップしたほどであった[4]

淀川長治は聚楽館を「文化の噴水」「日本の誇り」とまで称した。

淀川長治の生家は、柳原蛭子神社(神戸市兵庫区西柳原町)のすぐそばにあり、一家そろっての映画ファンであった。当時は新開地には聚楽館のほか、千代之座、キネマ倶楽部、相生座、栄館など活動写真館芝居小屋が軒を連ねる大繁華街であり、淀川もよく通い、映画に染まるきっかけになった。淀川は聚楽館を「文化の噴水」「日本の誇り」とまで称した[2]

1927年昭和2年)9月には営業不振を理由に、松竹シネマと菊水シネマの共同運営で映画の常設館に転向[6]1929年(昭和4年)には松竹に身売りした。1934年(昭和9年)の改装の際に、3階にスケートリンクが開設された[7]1938年(昭和13年)には田中絹代主演の『愛染かつら』(監督野村浩将)の大ヒットもあった[1]

神戸大空襲で一帯はほぼ全焼したが、聚楽館は戦火を免れて戦後は米軍に接収され、1952年(昭和27年)の解除まで進駐軍専用の劇場として使用されていた[2]

1978年(昭和53年)に閉館し、65年の歴史を終えた。現在、跡地にはラウンドワン新開地店(大京聚楽館ビル)がある。

沿革

  • 1913年8月18日 - 竣工。
  • 1913年9月1日 - こけら落とし公演。
  • 1922年3月19日 - 民衆座の第一回公演「青い鳥」が上演。
  • 1927年9月8日 - 映画常設館に転向。
  • 1929年8月10日 - 松竹に約63万円で身売り。
  • 1934年12月15日 - 1年ぶりに改装開館、アイススケート場を併設[8]
  • 終戦~1952年 - この頃まで米軍に接収される。
  • 1978年 - 閉館。

主な公演

大正初期に聚楽館の養成所女優だった三笠万里子(佐藤紅緑の妻、佐藤愛子の母)。

歌舞伎だけでなく新劇の旗揚げ興行も含め、大正期の日本の代表的な舞台、東京で評判になった物はほとんど聚楽館で演じられたといわれる。

来日公演

聚楽館で公演を行ったことがあるルイ・アームストロング(1955年の写真)

関連項目

出典

  1. ^ a b “戦前期日本の映画館写真(7)神戸・名古屋篇”. NFCデジタル展示室. 東京国立近代美術館 (2015年2月17日). 2015年4月18日閲覧。
  2. ^ a b c d e “淀川長治も通った映画の街新開地 当時の面影今も”. 神戸新聞 (神戸新聞社). (2020年1月12日). https://www.kobe-np.co.jp/news/kobe/202001/0013026573.shtml 2021年1月15日閲覧。 
  3. ^ a b 池本淳一、「【原著論文】嘉納健治の「柔拳興行」と日本ボクシング史におけるその位置づけ」『体育学研究』 59巻 2号 2014年 p.529-547、日本体育学会, doi:10.5432/jjpehss.13107
  4. ^ a b のじぎく(p.33-34)
  5. ^ のじぎく(p.35)
  6. ^ のじぎく(p.143)
  7. ^ のじぎく(p.143-147)
  8. ^ のじぎく(p.356-362)
  9. ^ “昭和24年(1949年)1月 第16回関西学院グリークラブリサイタル”. 関西学院グリークラブ. 2015年4月18日閲覧。
  10. ^ 末廣光夫 (2008年7月7日). “ブラジル移民100年にちなんで…右近雅夫が神戸の街に帰ってくる!”. ジャズエッセイ. 神戸ジャズストリート. 2014年2月6日閲覧。

参考文献

  • 神戸史港湾局『神戸開港100年の歩み』1967年。 
  • 落合重信、有井基『神戸史話』創元社、1967年。ISBN 978-4422250038。 
  • 『神戸新開地物語』のじぎく文庫、1973年12月10日。 
  • 神戸新聞総合出版センター『神戸とシネマの一世紀』1998年。ISBN 978-4875214946。 
  • 神戸新聞総合出版センター『歴史が語る湊川 新湊川流域変遷史』2002年。ISBN 978-4343002136。 

外部リンク

  • 新開地オモシロ情報サイト 新開地ファン
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